マクロ経済に於いて書き忘れていた事

不況の問題を、専ら効率性の問題であると指摘を読んで、改めて考えてしまいました。
どういう生産関数等を考えようか迷ったのですが、こういう理解の方が分かりやすいのかもしれない。
ただ、一先ずの自己防御として、パレート最適性を損なっているという点は、ひっそりと指摘していたつもりです(笑)。問題は、僕が衡平性の議論まで提出した処にあるのであって、経済社会観として平面的な空間を想定していて、いくら伊東光晴さんの「ケインズ」という著書が名著であって、その薫陶を受けているとはいえども、ちょっと疑問が種々あったりしていた。まあ、そんなこんなで、記述があの部分が浮き上がっているのだが、それは看過してもらいたいです。
もう一つの理由としては、働けない者を働かせる論理にもなる、と考えていました。不況の問題はやはり財市場の問題でもあるわけなのだが、労働市場に固有の問題群を解決するため、例えば高齢者、若年者、障碍者労働市場に引っ張り出すためでもあった積りです。伊東光晴さんの3層的なケインズ解釈だと、それが自明視されているように思う。こうした解釈が、専ら金融市場の問題に議論の重心を移すわけなのだが、財市場や労働市場を見る限り、それは行き過ぎなのかなあ、と思わないでもないのです。少し気に喰わないのだけれども、いくらなんでも年金基金まで否定的に考えるのは、様々な意味で、行き過ぎだと思う。もちろん、「バスに乗り遅れるな」式の批判ではないが、もう少し金融市場に良い評価を与えても良いのではないか。どちらにせよ、どの市場においても、問題のある人間は問題があるわけですから、そこだけ切り取るのはなあ。というか、最近、伊東光晴さんへの批判が多くないか、まあ、別にnetの片隅で書き殴っているわけだし、誰かの権威を利用しようと思うわけでもなければ、噛み付くことで自分に箔を付けようと思っているわけでもないので、それは良いかと。実際の処、尊敬している経済学者の方の一人である事には代わりませんので。
さて、それで、一体何を考えたのかといえば(L、K)という単純な事です。それで不況の状態を(L’、K’)と記述する。それで不況への過程が(L、K’)という道筋を辿るという事なのかなあ、と。要約するとKが貯蓄へのincentiveによってK↓→K'という状態に陥る事により、L↓→L'という現象が起きる。
ただなあ、単純にKが不足しているといっても、開放経済化ではそこまでKが減少するのか、という批判もあるのではないか。
まあ、それは余談だけど、実は良い数学的な表現はないかなあ、と考えてみたけれど、放棄しちゃいました(苦笑)。
すみません、またちょっと用事ができましたので、補記という事で。
ちなみにK↓が問題になるのは、それでI↓になるから、L↓になるという論理だと思うのだが、すごい単純化だけど。