地元に帰って思う事

僕の地元は社会保障の手薄さで全国的に有名な地域なのですが、それもあってかなくてか、実はいい加減に働いている連中が多いです。ちなみに、連中と書きましたが、実は幼馴染が多く、僕の大事な友人群です。ただ、彼等の良い処でもあり悪い処は、勉強を否定的に考えている。それが悪いというわけではありません。人間として、十分に立派な人間ではある。ただし、だからこそ自らの労働に悩むわけです。
ここで問題にしたいのは、このK地域に関してある仕事量と、K地域の労働人口が等値ではない、という事です。これが冒頭の社会保障の話に関連するのですが、仕事だ、雇用だ、といっても、人間には向き不向きもあるし、そんなに簡単に働けないという事は労働経済の知見の一つではないかと。しかしだからといって社会保障に、彼等は頼っていないが、頼る枠そのものが拡大する事もおかしいし、財政政策で仕事を増やしたとしても、下記の論考により、後回しにされる問題が山積される事になる。財政政策はそういうものでしょう。もちろん、だから財政を動かす事が駄目だとは決して言いません。ただそれならばどうするのか、といえば、仕事を創って貰うしかない。
ところがですね、そんなに簡単に仕事ができるか、簡単に言えば、起業できるか、という話でして、これにはそれは経済学の立場からは肯定的に考えられるけれど、経営学の立場からは経済学ほどには肯定的に考えられないのではないかと。そんなに簡単に起業して、経営が上手く行くのか、というか、上手く行くのであれば、経営学なんていらないでしょう。だから、若者がそんなに簡単に起業できるわけないんですよ、余程の覚悟や責任がない限り。ちなみに、これは若者弱者論ではありません。正直な処、若者が企業したければ、それはそれで十分にお金を貯める方法があるのだから、それを実践するべきだと思います。というか、その位の根性が無ければ起業なんてするな、と思う。自らの手で資源を獲得するからこそ起業の意味があるのではないかと。その辺は、若者の立場の人間として、心底、そのように思います。
しかしそれならば雇用はどうするんだ、本当に悩ましい限りですね。中小企業の経営者の息子として、さらに中小企業を渡り歩いてみた結果として、法律、例えば労働法ってなあに、という世界なのです。それならばどのようにして秩序が保たれているのかといえば、古臭い原理なのです。これは幼馴染の連中と呑んでより強い確信を得ましたが、日本的だなあと思える本当に古臭い原理。変な知識を振り回さずに、人間としての筋を通すから、ある意味ではすごく望ましいのですが、これがいつまで続くのだろうかだとか、その中の問題が解決されていかないのではないかだとか、そういう課題もあるわけです。一言で言うと、それでは次の展望が開けないと。
もう一つの感想として、逆に古臭い原理の方にしがみついている。ようは知識のある人や知識人の言う事を聴かないのだけど、自分達が持つべきものとして歴史的なものを見る。時代に逆行する。だから彼等の行動が古臭い原理に進む。でもなあ、個人的には「原体験」よりも「構想力」、というかその「原体験」を「構想力」にまで昇華させてこその経営ではないか、と思うので、すごい違和感があるのです。確かにね、知識人の言っている事がおかしいというか、それで上手くいかないという事も十分あるんですが、しかしなあ、それはそれで別として自分達のことを考えてもらわないと、そのように思わずにいられない。
それにしても、地元のK市はどんどん人口が減り続けていますしね。仕事、ねえ。僕が尊敬する経済学者の一人である権丈善一さんの処に、福沢諭吉翁の慶応大学商学部の設立の趣意書が載せてありましたが、若者の行動力や自立心が、武士が剣道を習うように、商業の世界だから商学を学ぶという方向に進まないものか。いやまあ、僕が商業の世界には向かわない、大学期の途中まではその気が満々だったのですが、とにかくそのようなわけで進まないので文句を言われそうなのだが、とにかく考えてしまいますね。