財政政策の乗数理論

僕は、基本的に、トラックバックを飛ばしたくないので今度も敢えて飛ばしません。
これは新古典派の経済学が財政政策にはこういうmeritがあります、という事だったと思います。確かにそれはその通りなのですが、根井雅弘さんの研究によれば、イギリス大蔵省の公債発行のclouding outのdemeritの主張に対抗するだけの理論だった、副次的なmeritもあるので問題はないという事だった、僕はそのように解釈を受容しています。
僕は伊東光晴さんを尊敬しているのですが、その著書の書評にこれまた僕が尊敬する吉川洋さんの書評が面白かった。ようは穴を掘って埋めるだけでも財政政策の意味はあるのだという事です。
以下が僕の理解なのですが、不況というものに個人の「責任」がどれだけあるのだろうか、もし不況が社会的事象であればそれは個人の自己責任に帰するものではないから、政府が仕事を与える事にmeritはあるという事です。
もちろん、これはケインズ自身の主張でもあります。自由を擁護しながらも、いわゆる自由放任主義を否定する政治的な論理でした。
もちろん、これで社会厚生は改善するのですが、ただそれと同時にやはり三つのdemeritを認識しなければいけません。まず一つは政府赤字の問題で、次の一つは人的資本の問題です。前者に限っては言うまでもないのですが。後者はあまり指摘される事はないように思います。仮にこの不況期によって政府が公共支出をする事により人的資本が形成されてしまえば、「転職」は難しい。その結果として公共支出が既得権益化する。もちろん、これは「失業」よりも良い状態なのですが、政府が当面の救済のために仕事ですから質の高い仕事ではない。ここで三つめの問題として、利潤率の低いprojectに人間が集中してしまう。もちろん、これは難しい処であって、長期的な公共支出は、失業対策の論理からすれば副次的なものであります。しかしながら、その長期的なるが故に人的資本が形成されてしまえば、そこに居続けることになる。sunk costを回収しようとする。
もちろん、それに対応するために、何か別の論理が必要になると思うのですけれども、ただ、この種の議論を読むたびに、本質的な効果を忘れて副次的な効果を強調して、結果として議論の筋が通らなくなる事がままあります。僕は経済学は選択の学問、merit-demeritを考えるものだと教えられていますし、それを受容している立場の人間からすれば、副次効果と副作用とを議論に表立てしまう事には違和感があります。それはそれとして、別に考えるべきだと思います。
ちなみに、最近、経済に対する意見のエントリーが多いのですが、それは御愛嬌だという事で。