人工物の複雑化と製品アーキテクチャを読んだ感想。

えっとこの論文、実は中段が一読でさっぱり分かりませんでした。
正確に言うと、議論の質は分かるのですが、その言葉が現実の何に対応しているのか、が分からなかった。
読んでいて、理論的すぎやしないか、と思ってしまった。
ところがですね、議論の後段はわりと読めた。もちろん、証明等はへえという感じでして、これから実際に自分で解いてみないといけないのですが。
ただ一体、社会や歴史のどこを切り取って議論をしているのか、分からない。これは理論経済学だから許される事なのでしょうか。むしろ数式を用いてくれる方が分かりやすいのです。
ちなみに私はミクロ経済学はこの著者の方の本で勉強して、大変に御世話になっているのですけれども。
このような思考に向いていないのか、それとも学識が足りないのか。
ところで私は大学のゼミに於いて、教授が、ある有名な本をmasterした、という発言を受けて、学者がそれで良いのだろうか、と即座に思ったのですが。ただ僕のこの論文の理解はゼミの教授と同様の理会なのかも知れませんが。ただ私は、この教授の著作における根本的な欠陥を見つけてしまったのですが。つまり数式による理解のみで、その主張そのものを根本から間違って受け止めている。もちろん、これは僕がその原論文に当ってみたからなのですが。ただ、それは理論経済学だから許されるのか、と思ってしまいましたけれども。
それに理論と法則の壁のようなものを考えてしまうこの頃なのですが。理論の根拠が人間の実在に根差すだけならば、少し社会科学の理論としては弱くないか、と。ただその一方で「法則」、つまりより多く観測されるけれども論理が今一つはっきりとしない。これはその分野の学者の知的な怠慢だとも思うのですけれども。ただ、私の場合、統計的因果関係をそれ程信頼していないという点で、あまり現代経済学に向いていないのですが。統計的因果関係も、具体的な因果関係がない限りでは「法則」に過ぎないのではないかと。それを自明視して扱う事は、少しおかしくないかと。
もちろん、現実に対して常に「実践的」である必要は無いと思うのですが、「緊張的」である必要はあるのではないかと。
ちょっと考えているのだけど、僕は学問は自らの行動の指針足ればそれで十分に思っているのです。下手をすれば、単なる自己正当化にしか過ぎなくなるのですが。ただ事象がころころと変わる度に理論も変わるのであれば、それは理論として弱くないか、と。あまり真面目に勉強する気は起きないのですが。もちろん、方法における刷新という事は挙げられますけれど。経済事象に対する経済的真実という言葉は響きは良いのですが、歴史的な時間に対して耐久力がないように思ってしまうのですけれども。