学歴コンプレックス、ですか。

ハイ、僕はありますけどね(笑)。正確に言うと、それは少し違うのですが。これを書くと自慢話になりそうで、嫌なのだけど。
実は私、浪人して某大学に勉強せずに入学しました。それで予備校では、東大クラスでして、当然、周囲の人間はかなり東大に入学しています。そういう彼等に対して、僕は、その真面目な性格が羨ましいという事でコンプレックスを持っています。
ところがですね、彼等は彼等で僕にコンプレックスを持っているのですよ(苦笑)。私、東大の全国模試で10番内に入った人間から、「○○君(実名)は、俺達の事を馬鹿にしているだろう」、と言われた事があります(苦笑)。ちなみに、予備校時代は、一度自分の納得行くの成績を出してしまったものだから、なんか東大に合格すると思っていて、全く勉強せずに遊んでいたからでもあります。偏差値などは右肩下がり。
それでですね、当然というべきか、センター試験で大失敗をしたのですよ。過去問を見て、まあ分かるや、と思っていたらものの見事で普通の国立大学さえ通らない、ぶっちゃけで書くと540/800点だったのです。あの頃は、若者として遊びたいという心理と、勉強しなければいけないという心理が鬩ぎ合っていた時期なので、合格するなら遊んでも良いじゃないかと思っていた記憶があります。
それでですね、どこにも行く所が無いという事で、急遽、母校の過去問を、今度はしっかりと解いたら、まあ合格するだけの点数は獲れる。それで過去問だけを解いて、後は遊んでいたけれど、それでもきちんと自分の志望する学部学科に通りましたし、これがまぐれでも奇跡でも無い事は、僕が他の学部に通った事で証明されています。でも、本音レベルで言えば運もあるかな、と(笑)。
それでですね、僕に直接、不満をぶつけた彼から母校の合学後に、「○○君は天才だね」と言われました(笑)。その時には、当然というか、「いえいえ僕に学力などはないし、それに真面目に勉強しなかったから東大に合格しなかった訳で、その差というものはやはりあるよ」という趣旨の返答をしました。ただ、彼以外からも、天才等々、本当に言われていた時期ですね(苦笑)。余程、僕が遊んでいるように見えるらしい(笑)。
ちなみに現役の時は、それなりに勉強していました。ただ友人群との兼ね合いもあって、実際問題として、彼等と付き合っていなければ東大には合格したと思う。ただ青春期はそれはそれとして充実して過ごしたいという感情もある訳で、あの頃はそんな感じで一杯でした。これが良い事か悪い事か、それは分かりません。ただ確実に、僕の世界が広がった事は事実です。経歴を犠牲にして。
ただ爾来ですね、才能という言葉を僕が認めていないというか、未だ自分よりも才能があると思った人間は居ない。しかしながら、人間にとって大事な事はその才能を十全に発揮して生きる事、人としてどうあるかという事、それらが才能という単に可能性にしか過ぎないものよりも遥かに大事だ、と考えるようになりました。これを読んだ皆さんはそうは思いませんか?
ただ僕にとって母校が救いなのは、極めて自由度が高かった事ですね。大学の勉強そのものが難しかったという記憶はありません。しかし案の定、成績は良くないのですが(苦笑)。ただ、あの時に感じて、考えて、悩んで、そして自分で学問を始めた事がどれだけ今の自分の礎になっているか分からない。本当に母校には感謝しています。ちなみに、私は、最も母校のimageに近い男みたいな位置づけでしたし、そもそも母校の創始者と誕生日が同じでして、俺って、らしいでしょう、と嘯いていましたが(笑)。
ただ逆に言うと、東大みたいにしっかりとしたコースがある処は羨ましいかなとも思うのです。あのカリキュラムをしっかりとこなせれば一廉の社会的な人物になれると思う。ただ逆に僕がそれに馴染めたかというと怪しいのですが(苦笑)。母校の自分の学部のカリキュラムも丹念に見れば、そういうものはあるのですよね。そうなのだけど、僕がそれに乗らなかったのか、乗り切れなかったのか、ただ僕は自分の考えで生きるし、その分の行動力もある。実はですね、知り合いの経営者の方それぞれに、個性が強過ぎる、独立心が強過ぎると言われていまして、いやいや貴方達からそんな事を言われると僕の立場がありませんよ、と思うのですが(笑)、なんかそんな感じの人間です。だから、東大的な真面目な性格とその資質から来る確かな実力には素直に敬服しています。ただ、まあ、そんな事には関係なく、俺は俺と思っているだけですね。そういうものが母校の精神です(笑)。

netでの信頼関係、ですか。

僕はどうなのでしょうね(笑)。後で知ったのだが、fuku33さんの所で議論になった時に、面白そうだから参加してみたのだが全く相手にされなかった。それは本人の主義であって、自分が認めていない人間の相手は時間の無駄だからしない、という事でした。おーおーこれはちょびっと悔しい(笑)。
ただですね、現実的な人的関係で言えば、私は恵まれているのですよ。個人的にはそういう人から認められているのであれば、全く問題ないのだけど。ただ現実の中でも、そういう人達以外には、あまり俺って凄いんだぜ、みたいな事を言わないというか、そもそも関わらないから、良い噂から悪い噂まで、様々な噂が出ている事も事実。俺ってその人が見たいように見られるのだね、と、最近も思ったばかり。ちなみに、この姿勢は、実は彼と同じなのではないか(苦笑)。
それにしてもnetでの信頼関係ねえ。サッカーブログを一つ運営しているのだけど、そこで外国で活躍されているサッカー指導者の方と、明示的ではないが、暗黙的な信頼関係はあります。いや、ホント。僕はサッカー指導者で生きていける自信があるもの。ただ、それは人生の選択肢から外しただけで、そんなにいい加減にサッカーをやってねえよ、と。これは洋服にも言えます。伝説、みたいなものはあるんですよ。ただ、自慢話だとか、社会の暗い影を切り取って真実だと言うのが馬鹿馬鹿しいと思っているだけです。なんか、人の揚げ足を取っているようで、俺はやりたくない(笑)。
なんて言うのだろう、一言で云えば、漫画版の「風の谷のナウシカ」を読めば?、という感じです(笑)。「ベルセルク」でも良いのかも知れない。ただ光だけのものよりも、闇があるからこその光なのだ、という、これを本当に理解していなければ、「もののけ姫」以降の宮崎作品を決定的に読み外している事になりますよ、と。ちなみに、私、もうどこに行っても、波乱万丈、独立心旺盛、個性豊か、これは三種の神器のように言われますが、何か(苦笑)。ただですね、知識をひけらかす事は主義ではないのですよ。それに、本は自分の読み方だけでなく、もっと丁寧に読みたい。一度、自分の読み方を忘れるというか、そういう読書の仕方をしているので、確かに結果的には自分の読み方通りにしか自分の知見は進まないのだが、それでもそうした読み方をする事自体に僕は価値があると思う。
ただですね、経済学はちょっと専門なので、人を槍玉に挙げている事も事実。ただですね、これはサッカーブログだともっと酷い(笑)。ただ僕が意識している事は、自分の立ち位置を明確にすることであって、そこから批判なり賛美なりをしている。いや、それがなければ駄目でしょう。その辺は、もう生き方がそうだから。そのために勉強なり、思索なりをしていたわけで、知識を増やすためのものではないからね。自分の考えを以って生きるもの。苦労だらけなのだが、これが僕の人生なのだと割り切っているから。ただどうなのでしょう、このブログでも誰かに訴えるもの、感じるものがあれば、それで良いのかなと。あんまり広げる意志はありませんしね。定期的に訪れたりする方が、ああなるほど、と思ってくれればそれで良いし、とりあえず個人的に経営に関しては一度トヨティズムを通過するべきだと思うので、その辺の事を納得してくれれば嬉しいかなあ。ほとんど自分用なのだけど、openに曝す意味があるというか。まあ今日はこんな処で。

障碍者の雇用についてちょっとずつ考えるよについてのcomment

この問題に関しては、僕も関心があります。
少し身内の事を言えば母が障碍者でもあります。と言ってもほぼ健常者と変わらず、小児麻痺で左腕が上にあげることができない程度ですが、一級だったと思います。と言っても、それがどの程度のものか、まだよく知らないのですが。
ただ、再雇用という点に関してはすごく難しいようでして、現下は遺族年金で生活しています。

それでこの手の問題を考えるに際しては、ヤマト運輸小倉昌男氏の見解を現状では指針としています。
詰まる処でいえば、障害者だから保護をするというのではなくして、事業化して市場競争に委ねるという事でした。(政府のヒアリングに際しては、今後どうなるかは分からないとしていますが)。
あくまでも私個人の考えですが、財産上の不公平というものは現実に存在するのであって、それならば身体上の不公平もそれと同値なのではないか。人間は、自らの枷や軛があっても、どう生きるかが全てだと思います。個人的にはそう考えないと、僕個人がやっていけないのですが(苦笑)。
ただ、最近、確か岩手県だったと思いますが、クリーニングを営む会社の賃金の未払いという事件があったように、障碍者が社会的弱者という事も事実であって、そうした場合の法的な素地を現実的に整える事は難しい。(確か、この会社の経営難を理由にしての賃金の未払いだったと思います)。そもそも健常者とはいえ労働法を守っているかと言われればそうでもない会社がある事も事実ですし、それは不況だから法を遵守する意識に乏しくなる事も一つの現実です。

ですから、基本的には二つのアプローチを考えていて、一つは小倉昌男氏のように、障害者とその支援者で事業化してしまう。こなせる仕事に限界はあるでしょうけれど、それは健常者も同じ事ですし、その限定する枠が違うだけだと思います。
もう一つは、段階的に、不況を緩和して、次に法的な意識を持たせた上で、雇用する。
もう一つ付け加えるならば、ワークライフバランスが単なる掛け声でなければ、働き方の多様性を持たせる事は企業にとっても意味のあることであり、そこに障碍者を含める事はできないのかな、と。

fuku33さんのcommentで削ったもの

長くなると失礼になる、これまで十分に長い書き込みをしているのだけど、とりあえずcomment用に書いたメモの備忘録として。

実は経済社会の中で全く制御できない消費空間がある。この点で外的整合性と記号消費論は幾らかの親和性があると考えます。それとは逆に、実体的価値、意匠的価値が、生産工程までで組み上げられるものだとすれば、内的整合性と制御可能性の親和性がある。そこで、経済社会の消費空間を考える際に、出来うる限り記号消費論的な要素を減少させて、供給者に制御可能な要素を増大させるものなのである。
ただもう一方で経済社会に認知の乏しく、従って需要の目処が立たないような、新しい商品を生産者が供給する場合に、それがどのような「意味」を持って商品を買われるか分からない。そのような販売工程内においては外的整合性が重視される事になる。ただそれはやはり外的整合性を内的整合性に変換していく事に繋がる。

生産工程や販売工程の方から、それは工程に載せられないという事での制御可能性。生産工程の中で制御できないものがあるとすれば、生産管理的には大きく拙い事になる。但し、これは内的整合性になる。

「効率よく」という事は、製品を生産して販売する過程に「非効率な」面がある。それを修正して効率的な開発−生産−販売をするための論理なのか。

他にもあるのだが、文章化したものがこれだけなので。

経営者の責任

どうでも良い事から始めますが、僕のはとこが大手商社のM、まあ“商事”か“物産”かしかないのですが、そちらに転職している。それでキャリア転職組のHPに載っている。おーすげえ(笑)。だから、可愛いといえば可愛い。う〜ん、今の僕と比較されるとなあ。何を構想しているのか、それは余人には分かりにくいものだと思う。一言で言うと、道が無いのであれば創るまでだ、うん、それしかないから、今はどれだけ蔑まれても(苦笑)、我が道を行くしかないのです。
ところで、彼女が勤務する商社の上級職で退社された方と一時、懇意になっていたのですが、女子は経営に不向きだ、という事で結論が一致しました。ちなみに、地元に帰ってある経営者の方と再度お会いしたのだが、そこでも女子は経営には不向きだ、と。ただ、こちらの場合は、自分の後を継ぐ人間が自分の娘になるのかも知れない、という事での悩みもあったようですが、とりあえずそんな結論が出ている。ところがですね、僕もその経営者の方も女子の社会進出にはすごく肯定的なのですよ。理由は色々とあるのですが、合意した結論だけで言えば、男だけだと馬鹿ばかり、というか馬鹿になる、という事でして、思想的なフェミニズムからの要請ではない。むしろ公平さを重んじている処からの要請でもあります。
それではなぜ女子の経営者が不向きなのか、それは責任論からの要請です。業務が言えない点ですごく残念なのですが、ある業務のために本来的には切れない人間がいるのです。そうでなければ業務を果たせない。ところが、様々な理由の元にその人間を切らなければならない。これでその方はすごく考えたそうです。そしてその方の判断は、自らの責任に於いて、その対象者を切りました。もちろん、ただで切ったわけではなくて、ある程度の方向に進めるように、その人間の人生を閉ざしてしまわないように配慮して切った。こういう点が、僕が未だにその方と懇意にする、地元に帰ったら会ってしまう理由なのですが、逆に言うと、女子だったらそこまでやるのか。まあ、男でもそういう奴がいるので、これは偏見といえば偏見なのだが、実際の処、駄目なものは駄目だと分かっているわけですよね。だったら簡単に人を切れるかというと、そうじゃない。ところで、昔の日本企業は、それはそれで様々な問題があったそうだが、経営層が解雇をする場合は自らその責任を取って辞職したそうです。
ところで、もう一方の商社の方が挙げる理由は、恋愛以上の修羅場の世界だから、という事です。これもけっこう納得が行く。言い方が悪いが、恋愛以上の理不尽さというか、もう少し言えば自己正当化など出来る世界ではないので、例えば某女性国会議員を見てもそれは分かる事ではないか。こういう場合は、男の方が酷いんだよね。おーおーよくやるよね。そんな事ばかり。ちなみに、僕はそれで思いっ切り足を引っ張られ梯子を外された事があるので、憤懣やるかたない。これは経験してみないと分からないのですよ。これは俗に男の嫉妬という。男同士の、女よりも恋愛の距離感が近いからこその起きる問題でもある。
それでですね、恋愛も責任といえば責任でして、大人だったら自分の恋愛に責任を持て、と昔から思っていたのだが、仕事もそれに近い要素があるわけです。昔は、public-privateの区別を厳密に考えていたのだが、最近はそうでもなかろうというか厳密に区別しようと思えば思うほど無理が来る。こういう言い方もなんですが、好き嫌いだけで恋愛は出来ないし、それに好き嫌いのlevelで終わる恋愛は、ある意味で恋愛の奥深さを分かってないのではないか。そうすると、これは仕事にも言えるわけで、恋愛と仕事との単語を置き換えてもそれは十分に通用するものだろうと思うのです。とするとね、空騒ぎだの合コンだの、やってられるか。まあ、そういうものが僕自身が好まないという事もあるのだが、やっぱり無理だなあ、と。(小声で)大体、女遊びをしたければ、大学期でやっておけばいいし、それで十分だろうと思うのだが。
今日は、本当は別の事を書く積りだったのだけど、経営者論になってしまいました。ちなみに僕はだからといって女性経営者を全く否定していません。分かりやすく言うと、世界史上で女性の名君主はいるでしょう。そういう話です。ただ向いている女性は少ないなあと。そういう事で

マクロ経済に於いて書き忘れていた事

不況の問題を、専ら効率性の問題であると指摘を読んで、改めて考えてしまいました。
どういう生産関数等を考えようか迷ったのですが、こういう理解の方が分かりやすいのかもしれない。
ただ、一先ずの自己防御として、パレート最適性を損なっているという点は、ひっそりと指摘していたつもりです(笑)。問題は、僕が衡平性の議論まで提出した処にあるのであって、経済社会観として平面的な空間を想定していて、いくら伊東光晴さんの「ケインズ」という著書が名著であって、その薫陶を受けているとはいえども、ちょっと疑問が種々あったりしていた。まあ、そんなこんなで、記述があの部分が浮き上がっているのだが、それは看過してもらいたいです。
もう一つの理由としては、働けない者を働かせる論理にもなる、と考えていました。不況の問題はやはり財市場の問題でもあるわけなのだが、労働市場に固有の問題群を解決するため、例えば高齢者、若年者、障碍者労働市場に引っ張り出すためでもあった積りです。伊東光晴さんの3層的なケインズ解釈だと、それが自明視されているように思う。こうした解釈が、専ら金融市場の問題に議論の重心を移すわけなのだが、財市場や労働市場を見る限り、それは行き過ぎなのかなあ、と思わないでもないのです。少し気に喰わないのだけれども、いくらなんでも年金基金まで否定的に考えるのは、様々な意味で、行き過ぎだと思う。もちろん、「バスに乗り遅れるな」式の批判ではないが、もう少し金融市場に良い評価を与えても良いのではないか。どちらにせよ、どの市場においても、問題のある人間は問題があるわけですから、そこだけ切り取るのはなあ。というか、最近、伊東光晴さんへの批判が多くないか、まあ、別にnetの片隅で書き殴っているわけだし、誰かの権威を利用しようと思うわけでもなければ、噛み付くことで自分に箔を付けようと思っているわけでもないので、それは良いかと。実際の処、尊敬している経済学者の方の一人である事には代わりませんので。
さて、それで、一体何を考えたのかといえば(L、K)という単純な事です。それで不況の状態を(L’、K’)と記述する。それで不況への過程が(L、K’)という道筋を辿るという事なのかなあ、と。要約するとKが貯蓄へのincentiveによってK↓→K'という状態に陥る事により、L↓→L'という現象が起きる。
ただなあ、単純にKが不足しているといっても、開放経済化ではそこまでKが減少するのか、という批判もあるのではないか。
まあ、それは余談だけど、実は良い数学的な表現はないかなあ、と考えてみたけれど、放棄しちゃいました(苦笑)。
すみません、またちょっと用事ができましたので、補記という事で。
ちなみにK↓が問題になるのは、それでI↓になるから、L↓になるという論理だと思うのだが、すごい単純化だけど。

地元に帰って思う事

僕の地元は社会保障の手薄さで全国的に有名な地域なのですが、それもあってかなくてか、実はいい加減に働いている連中が多いです。ちなみに、連中と書きましたが、実は幼馴染が多く、僕の大事な友人群です。ただ、彼等の良い処でもあり悪い処は、勉強を否定的に考えている。それが悪いというわけではありません。人間として、十分に立派な人間ではある。ただし、だからこそ自らの労働に悩むわけです。
ここで問題にしたいのは、このK地域に関してある仕事量と、K地域の労働人口が等値ではない、という事です。これが冒頭の社会保障の話に関連するのですが、仕事だ、雇用だ、といっても、人間には向き不向きもあるし、そんなに簡単に働けないという事は労働経済の知見の一つではないかと。しかしだからといって社会保障に、彼等は頼っていないが、頼る枠そのものが拡大する事もおかしいし、財政政策で仕事を増やしたとしても、下記の論考により、後回しにされる問題が山積される事になる。財政政策はそういうものでしょう。もちろん、だから財政を動かす事が駄目だとは決して言いません。ただそれならばどうするのか、といえば、仕事を創って貰うしかない。
ところがですね、そんなに簡単に仕事ができるか、簡単に言えば、起業できるか、という話でして、これにはそれは経済学の立場からは肯定的に考えられるけれど、経営学の立場からは経済学ほどには肯定的に考えられないのではないかと。そんなに簡単に起業して、経営が上手く行くのか、というか、上手く行くのであれば、経営学なんていらないでしょう。だから、若者がそんなに簡単に起業できるわけないんですよ、余程の覚悟や責任がない限り。ちなみに、これは若者弱者論ではありません。正直な処、若者が企業したければ、それはそれで十分にお金を貯める方法があるのだから、それを実践するべきだと思います。というか、その位の根性が無ければ起業なんてするな、と思う。自らの手で資源を獲得するからこそ起業の意味があるのではないかと。その辺は、若者の立場の人間として、心底、そのように思います。
しかしそれならば雇用はどうするんだ、本当に悩ましい限りですね。中小企業の経営者の息子として、さらに中小企業を渡り歩いてみた結果として、法律、例えば労働法ってなあに、という世界なのです。それならばどのようにして秩序が保たれているのかといえば、古臭い原理なのです。これは幼馴染の連中と呑んでより強い確信を得ましたが、日本的だなあと思える本当に古臭い原理。変な知識を振り回さずに、人間としての筋を通すから、ある意味ではすごく望ましいのですが、これがいつまで続くのだろうかだとか、その中の問題が解決されていかないのではないかだとか、そういう課題もあるわけです。一言で言うと、それでは次の展望が開けないと。
もう一つの感想として、逆に古臭い原理の方にしがみついている。ようは知識のある人や知識人の言う事を聴かないのだけど、自分達が持つべきものとして歴史的なものを見る。時代に逆行する。だから彼等の行動が古臭い原理に進む。でもなあ、個人的には「原体験」よりも「構想力」、というかその「原体験」を「構想力」にまで昇華させてこその経営ではないか、と思うので、すごい違和感があるのです。確かにね、知識人の言っている事がおかしいというか、それで上手くいかないという事も十分あるんですが、しかしなあ、それはそれで別として自分達のことを考えてもらわないと、そのように思わずにいられない。
それにしても、地元のK市はどんどん人口が減り続けていますしね。仕事、ねえ。僕が尊敬する経済学者の一人である権丈善一さんの処に、福沢諭吉翁の慶応大学商学部の設立の趣意書が載せてありましたが、若者の行動力や自立心が、武士が剣道を習うように、商業の世界だから商学を学ぶという方向に進まないものか。いやまあ、僕が商業の世界には向かわない、大学期の途中まではその気が満々だったのですが、とにかくそのようなわけで進まないので文句を言われそうなのだが、とにかく考えてしまいますね。