なぜ私は未だに学問に拘るのか、そして研究者へと進まなかったのか

昨日の日記に学問の事を書いたのだけれども、それでは未だに私が実地にいるのか、そして学問を続けているのか、それを書いてみたいと思う。
とりあえず一つ思っている事は、規範経済学者に僕の目にしてきた現実を見せ付けてやりたいと考えている。これは規範経済学者への批判ではありません。そもそも僕がどちらかと言えば規範経済学に親和性がある人間だと思う。だからこそ、僕の報告を真剣に考えて欲しいのです。貴方がたが論じる議論が、社会の底辺や下層の人々に通じるのか、という事をまず第一の課題としたい。はっきり言って絶望的です。議論の通じる要素は、ほぼ見当たらないといって良い。しかしながら、そうであるからといって彼等を人間として一等下に見下すのか。もしそうであるとするならば、貴方がたは一体何のためにその学問を営んでいるのか。私自身の答えは基本的に明確です。一つは市場に任せる事です。貨幣的規律を以って生きてもらうより他はない。しかしその一方で自発的な意志によって別の仕事に就ける努力をする時間を確保してもらう。補助金は考えていません。これでは低賃金のままではないか、という批判があるかもしれないが、公教育と高等教育から逸脱してしまった以上それは仕方無いのではないか、と思う。もちろん、僕は現代社会に大きな不満があるしそれを変えたいと思う。しかし僕は決して現代社会の中で生きる人間を批難しようとは思わない。そもそもそれは彼等にとってどうにかできる事ではないからである。社会の慣習や制度の中で生きる事が人間にとって当然の事だからだ。
しかしそれならば、どうしてニートという現象が起きるのか、また社会が右傾化するのか、感情論が罷り通ってしまうのか。私は、これらの質問に答えてもらいたいと思う。なるほど現代の社会科学者は、確かに蛸壺化という批判はあるのかもしれないけれど、最先端の論議で得られた知見をもってして現代社会に貢献するものだという。これは話の筋が通る。しかし、僕はそうした専門家になる意志はない。僕はそれよりも実践の人間であるし、またそうありたいと思う。これはjournalisticというような批判はあるのかもしれないけれども、その代わりに幅広く物事を知れるというmeritもある。僕は真摯な価値判断としてそれを下したつもりである。それならばどのようにして、専門的知見を我がものとするのか、それは学者の人間によって決めようと思う。この考え方は確かに権威主義的な側面がある事は否定できないけれども、それはその方々の議論を鵜呑みにするものではない、という事だけは指摘したいと思う。全く、私の現実とは異なる。一体、どれほど知的な格闘をしているのか。
例えば、政治哲学者の小野紀明さんと村上春樹さんとで庄野潤三さんの読み方が全く異なるのはどういうわけか。
その理由と自らの考えを率直に述べる必要があると思う。私自身の答えも考えもはっきりとしているのだけれども、それは、さすがに本論から外れて行くので省略する。へだし、このような事例は暇ないほど多く存在するという事だ。そうであれば、僕自身に課せられた課題はその読書を通じながら自らの価値観と哲学とを認識し構築しながら、正否を判定する事になるのではないか、と思う。もし此処がぶれていたら読書が身に付く事はないと思う。
多少、話が逸れてしまったのだけれども、私が問題にしている一つの事としての、ニート、あるいは低賃金問題である。これは私自身がその身を以って経験する事を望んで赴いたものの、あまりの酷さに今まで研鑽してきた学問は一体なんだろうか、と思った。彼等が別の産業に簡単に移動できると思っているのだろうか。どうすれば自らの声が彼等に届くのだろうか。それを抜きにして学問を論じるのであれば空論ではないか、とさえ思う自分が居る。新しい技術、新しい産業でどれだけ雇用が吸収されるのだろうか、あまたその前提条件はどうなっているのだろうか。それらを綿密に検討しなければならないのに、というような事を考えてしまう僕は、やはり実践の人間なのだと思う。ただここまで書いて私自身が決して学者にならないのは、象牙の塔に篭るだけの「勇気」が無い事を認めるものである。繰り返し考えるけれども、敢えて象牙の塔に篭りその中で知的な成果を出すという事も覚悟と決意が必要なはずである。
どうしても話が飛び飛びになってしまうのだけれども、私自身はやはり財市場の問題に帰着してしまう。端的にいえば仕事がないのである。だから、未熟練労動に人間が集中してしまい、結果としてさらなる低賃金になる。そうであるならばどうすれば良いのか。この点で私は経済成長を自らの答えとしない。逆説的な言い方をするけれども、私が尊敬する経済学者の小宮隆太郎さんも同様の議論をしていて、小宮さんが変な事を言ってくれなくて良かった、と思っている。こういう言い方をすれば、誰かの権威を利用する事にはならないのだろうか? これはあくまでも一つの疑問ではあるのだけれども。こういう比較的、論争的な人間、自らの考える処を検証しながら自説を固めていくだけに、仮にそうした批判があるとすれば、それは当らないと指摘したい。私の考えは経済成長を維持する事は変革のための前提条件だ考えている。仮にそうでなければ、このような現象が景気循環の度に惹起されるのではないか。それでは人間の英知がないと思われる。それでは変革のためには何をすれば良いのか。第2次産業の規模が小さくなり、今後ともその趨勢が続くのであれば思い切って第3次産業への転換をする。もちろん、第2次産業の競争力は維持をする。冷静に考えてもらいたいのだけれども、第2次産業的な新技術において今後どれだけの雇用増が見込めるのであろうか。私自身は、当面の構造改革路線に賛同をするのではないけれども、何か新しいものをする必要があると思う。そしてそのためにやらなければいけない事は分かっている。そもそもの時点で新しい仕事というものに私自身が自ら挑むつもりなのだ。こればかりは議論ではなくて行動で実績を示さなければならないと考えている。
もう一つの議論として、資本主義的なものの考え方に馴染まない人間の集団も居るのだと指摘したい。これは端的にいえば、行政であり、中間団体でもあるけれども、現在において多くある議論に行政の無駄というものがある。これに関する私自身の主張は明快であって、貨幣的規律を前面に押し出す事無く、彼等独自の価値観を優先させる事を一義としたい。予算制約の議論は二義である。逆に企業は貨幣的規律が一義であり、二義に企業の社会的な役割が来る。この点で、現在の経済社会を全く否定していないのである。何故ならば、どうして企業が社会に必要とされないもの、需要のないものを生産するだろうか。その点を全く無視する積りはない。
ただし、問題は第3次産業にそれがどのようして通じるのか、どうすれば有効需要が増えるのか。それを私は公共政策に頼ろうとは思わない。これは一つの筋の通った理論であるけれども、それは政治経済学の観点からは否定される。もしそうであるならば、どうすれば有効需要が拡大してくれるのか。第3次産業に賭けている自分が居るのだけれども、実はその観点で考えれば、貨幣的規律が前面に押し出されない事を問題にしたい。もちろんこれは中間団体の議論と平行するものだけれども、貨幣的規律を全く否定しない。しかしそれが前面に押し出されるかと言われればそうでもない。端的に言えば、そのようなものは全く詰まらないのだ。念頭に置いているものは娯楽産業であり、観光、スポーツ、レジャー、映画、漫画、音楽などである。さらに端的に言えば、これらの産業はその内部で独自の競争があるのであり、それは貨幣的な規律によるものではないという事だ。様々な証言と、私自身の若干のinterview等により、それは裏付けられている。そして問題にしなければいけないのは、これはなんら公共政策の働く余地のない事だ。人が面白い、楽しい、と思う事を他の誰かに強制させられようか。なるほど誘引のようなものが考えられるけれども、それに上手く乗っかからない時代である事を認識するべきだと思う。そして、そんなものに引っ掛からない多様性があるからこそ、結果的に人格の尊厳も生む素地が誕生するのではないか。これが私の問題意識の一つであるし目指すべき社会なのではないだろうかと思う。
最後に粗雑な議論を展開したものではあるけれども、引用を多くして余計な煩雑を出来うる限り避けた、と認識していただければ有難い。仮に何か不備があるのであれば、それは当方の責任であるし、それが一体どのようなものからの着想なのか、それは呈示するという事で御容赦頂きたい。